カルピスの歴史(徳重教室)
徳重教室の堀です!
みなさん、
カルピスの歴史を知っていますか?
カルピスは、なんと、今年でちょうど「誕生100年記念」を迎えるそうです!
いやー、
そんなに長い歴史があるとは…知らなかったです…。笑
本日は、
この「カルピス100年の歴史」を「中学歴史」とリンクさせて、見ていきたいと思います!
カルピスは、
1919年7月7日に発売が開始されます。
この頃はもちろん、原液を薄めるタイプのカルピスです。瓶に入っているやつです。
1919年といえば、第一次世界大戦終戦後、ドイツで制定されたワイマール憲法ですが、これは1919年8月に発表されたので、カルピスの方が「1か月先輩」です!
ぜひ、覚えておきましょう!!
日露戦争(1904~)年のときに「君死にたまふことなかれ」を詠んだことで有名な与謝野晶子。
なんと、カルピスを飲んだ歌を2つ詠んでいます。
<カルピスを友は作りぬ蓬莱の薬というもこれにしかじな>
<カルピスは奇しき力を人に置く新しき世の健康のため>
なんか、カルピスの印象が厳かなものに変わります。笑
がぶがぶ飲みづらくなりますね。笑
また、
「初恋の味」というキャッチフレーズを使った広告はカルピスが発祥です。
当時は新聞広告ですね。1922年のことです。
その翌年、1923年、関東大震災が起こりますよね。
そのとき、被災に苦しむ人々にカルピスが無償で配られました。
多くの人に親しまれる理由はここにあるのかもしれません。
原液の入った瓶は、包装紙で包まれています。
発売当初は、青地に白い水玉模様です。
今は、白地に青色の水玉模様ですね。
ですが、1932年に、赤地に白い水玉模様になります。
なぜ「赤」なのでしょうか。
首相の犬養毅が襲われた、五・一五事件が影響しているのでしょうか。笑
この頃から軍部が台頭してくる日本。
軍部専用のカルピスが作られます!
カルピスは、「健康ドリンク」の位置づけですからね。
軍の健康は重要だったのでしょう。
※1938年の国家総動員法で、カルピスの会社は政府の支配下に置かれました。カルピスは嗜好品として扱われ(砂糖を多く使うので)、一時生産は制御されましたが、ビタミンを混ぜて健康要素を強めた「軍部専用 ビタカルピス」として、復活を遂げます。
1941年に太平洋戦争が始まって約3年後、サイパン島が陥落すると、日本本土に空襲が増えてきます。
カルピスの「秘伝の原液(乳酸菌)」に何かあってはいけません。この秘伝の乳酸菌が燃えて無くなると二度とカルピスは作れません。
子どもたちと一緒に、東京にあった「秘伝の原液」も疎開します。
東京大空襲で東京の工場は焼けてしまったので、原液の疎開は素晴らしい判断ですね。
1959年には、テレビ広告を開始します。
1958年に白黒テレビの普及が抜群に伸びています。その波に乗っかったのでしょう。
白黒テレビの普及率を、ぜひ、社会の資料集で見てみてください。
1964年には、「カルピス」を「CALPIS」の英語表記に変えます。
受験生なら、理由はなんとなくわかりますよね。
東京オリンピックの開かれた年です。
外国人がたくさん日本に来ますからね。
1973年には、「カルピスソーダ」が発売されます。
石油危機の辛さを炭酸の爽快感で乗り切りたかったのでしょうか。笑
このとき「カルピスウォーター」(最初から薄めてあってすぐ飲めるやつ)はまだ発売されていません。
発売されているのは、原液とカルピスソーダだけです。
なんと、カルピスウォーターよりカルピスソーダの方が先輩なのです!
「カルピスウォーター」の発売は、1991年です。
そう、バブル崩壊の年です。
「ソーダ」:石油危機
「ウォーター」:バブル崩壊
この2つ、なかなか切ない年に生まれたのですね。
これ以降、容器がペットボトルになったり、紙パックになったりするのですが、
長くなってしまったので、この辺で終えておきます。
歴史を調べると時代背景との繋がりが発見できて、面白いですね!
他にも色々と調べてみたいと思います。
では、また!